生きるという事の意味

がん宣告を受け止める

職場の部下から「膀胱がんが見つかりました」、
そんな突然の電話を受けたのは夏の暑い昼下がりのこと。

一月前に受信した人間ドックで、彼が「要精密検査」の診断を受けていたのは部長の報告によってすでに知ってはいた。58歳、妻と二人の子どもの4人家族。確か子どもたちは成人しているもののまだどちらも大学生のはずだった。受けたショックは大きかったであろうに、彼は意外にも電話の中では冷静だった。

「社長。今は二人に一人ががんになる時代です。やむをません。」

確かにそれは彼の言うとおりであったが、どこか彼の言葉は他人事のような気がした。一週間以内に仮入院し手術前の様々な検査が始まる。その検査の結果を待って直ちに入院し、がんの摘出手術が行われる。そうしたスケジュールを淡々と告げる気丈な彼の心境を測りかねた。

「元気を出して下さい。今は医学の進歩が著しい。きっと完治しますよ。」

うろたえたように答えるしかない自分の方が、がん宣告にたじろいでいたのだ。今では職場内でも数少ない喫煙者である彼が、休憩時間になると所定の場所に出かけてのんびり煙をくゆらす姿がなぜか脳裏をかすめた。

 

オートバイと夏の終わり

あれほど暑かった夏が、まるでうそのような日が続いています。
今年の夏は、オートバイに乗る者にとって、つらい夏でした。オートバイは「風を切って」頬をよぎるその心地良さを味わえるのが、本来の楽しみのはずです。
ところが、気温40度の熱風は、とても「心地良い」というレベルのものであるはずはなく。我が愛車も7月初めから、8月現在まで、一度も出庫することなく、車庫で静かに眠っています。こんな時には、これまで出かけたツーリングの思い出でも少し紐解いてみますね。でも、これからお話しするのは、ちょっぴり苦い思い出なんですが。

夏の終わりと日光ツーリング

 それは、今からもう30年前の出来事になります。
 8月後半のある晴れた日の午前、当時大学4年生だった私は、夏休み最後の思い出として、奥日光へひとりソロツーリングに出かけました。日光ツーリングは、当時私が最も好きだったコースのひとつです。その日も、愛車スズキGSX250にまたがり、東北自動車道路栃木ICから高速道へ入り、宇都宮ICを経由して日光宇都宮道路へ。その日は、平日の昼下がりとあって、交通量も少なく、快適なクルージングを楽しむことができました。
 やがて、いくつかの料金所やトンネルをくぐり抜けると「いろは坂」。後方から爆音響かせ追い越していく「かっ飛び野郎」など、まったく気にもせず、ただひたすらに心地よい、高原の冷気を胸一杯に吸い込みながら、ワインディングロードを無理ないスピードで上り詰めていきました。長いトンネルを下り、赤い大鳥居が左手に見え始めれば、ほどなく中禅寺湖畔です。
 どこまでも澄み切った青空と、高原の湖。午後の柔らかな日差しが、まぶしく湖面に降り注いでいます。私は、湖の近くにあるパーキングにバイクを停めヘルメットを外すと、ライディングスーツの胸ポケットから、セブンスターパッケージを取り出しました。そうしてくわえた煙草に火を点けて、胸の奥まで煙を吸い込みます。
「うーん、この一服がたまらない。」
 ふーと煙を吐き出しつつ、そうやってオートバイに乗る楽しみを改めて実感していました。好みのワインレッドの車体は、まだ新車のおろしたてで、ぴかぴかに磨き込んでいました。このボディ全体の深い朱色が気に入って、この車種を決めたのだけれど、4サイクルエンジンの振動が、またすこぶる心地いい。そんな至福の時をいつも通り過ごしていたのです。
 今振り返れば、当時大学生だった自分は、時間を見つけては、そんな他愛のない瞬間のために、2時間近くもアクセル握って、ただひたすら高速道路を走り抜けていたんですね。

悪夢の瞬間

 8月とはいえ、湖面を吹き抜ける風は、平地のそれとは明らかに違い、肌寒さを感じさせました。自販機で買った缶コーヒーを飲み干すと、再びヘルメットをかぶってアクセルオン。中禅寺湖の水面を左目で眺めながら、右岸を戦場ヶ原へ。赤沼のお土産屋さんは、当時も今と変わらぬたたずまいでそこにぽつんとたたずんでいます。右手にある県営駐車場にGSXをすべりこませると、その日のツーリングもそこでUターン。あとは安全に帰路につくだけでした。
 中禅寺湖からいろは坂を下り、日光道路経由で東北道へ。栃木インターを降りる頃には、すでに午後4時を回っていたと思います。夕暮れは「逢魔が時」、昔からそんな迷信を信じていた訳ではないけれど、母親譲りの「霊感」が、ほんの少しだけある自分には、その時間帯の怖さは十分自覚していました。
 ところが、急ぐ理由のないその日のスケジュールのはずが、その日に限って、一度も休憩無しのノンストップで私は走り続けていました。それに加えて、前傾姿勢で少しだけ疲れたせいか、さっきからなんとなく眠気も感じている。睡魔はバイク乗りにとって絶対に厳禁、そんな最低限の戒めもうつらうつらし始めた意識の中で薄れていきます。それでも、なんとか、必死にまぶたをこじ開けながら

「がんばれがんばれ、もうすぐ我が家だ。眠さになんか負けないぞ。」

心の中で繰り返し、そう自分に言い聞かせながら、グリップを握り直したはずでした。
 やがて、愛車は普段から走り慣れている、栃木県と茨城県との県境にある小さな地方都市、Y市の市街地を進み始めました。右手に歯医者がある、やや左カーブの県道に、ちょうどGSX250ccがさしかかった時のことです。その一瞬不覚にも私は、オートバイのグリップを握りしめたままで、がくっと睡魔に引きずり込まれてしまったのです。
 「はっ。危ない」
と、思ったのも手遅れ。私には、目前に迫る大型トレーラーを避けきれませんでした。スローモーションの映像が流れるように、ワインレッドの車体は横倒しになり、そのまま反対車線にはみ出して、一直線に大型トレーラーのフロントに見事に激突しました。

左足切断?

 目が覚めたのは、それからどれくらいの時が経っていたのか皆目見当もつきません。ただ、気づいた瞬間から、背中と両腕から焼けるような痛みを感じます。お気に入りのライディングスーツも、アスファルトとの激しい摩擦でずたぼろになって、何カ所か破れた上に、両腕のあたりが黒っぽく血に染まっていました。
 
 目を開けて周りを見渡すと、いつの間にか人だかりができているようです。

「あっ、目をあけたぞ。生きてるようだ。」

私の様子を近くでうかがっていた中年の男性が、急にそう叫びました。

「救急車はまだか?だれか、体をダンプの下からひき出してやれよ。」

 くちぐちに自分の意見を述べあっているようですが、集まった野次馬の誰一人として、トレーラーの真下で血まみれになっている私を、助け出そうという勇気のある人はいません。
 
 そうこうしている間に、まもなく救急車と消防車、そしてパトカーなど数台が事故現場に到着し、ようやく私の救出作業が始まりました。後で分かったことですが、私が運が良かったのは、トレーラーと正面衝突する寸前、無意識にバイクの車体を横滑りさせたことでした。
 ご存知の通り、トレーラーは大型になればなるほど、そのバンパーが地面から高い場所に装着されています。そのため、実際にバンパーと地面との間には、40cm程度のすきまができていました。
 そのため、私の乗ったバイクは、トレーラーのバンパーに激しく衝突しながらも、その瞬間、身体だけがバンパーの下をかいくぐり、トレーラーの車体の真下に滑り込んだようでした。しかも、傷だらけのヘルメットをかぶったままの自分の頭の、なんと目前30cmの場所には、トレーラーの巨大な前輪が迫っていました。(もし、あと数秒でもトレーラーのタイヤがスリップしていたら、たぶん私の頭はタイヤにぐちゃぐちゃに踏みつぶされていたかもしれない、そう考えると、30年経った今でもぞっとします。)

 準備が整い、「せえーのっ。」という消防隊員らのかけ声と共に、ジャッキアップされたトレーラーの真下から、力の全く入らない私の身体が引きずり出されました。その時になって初めて私は、左の太ももがぱっくり割れていることや、血みどろに断裂した筋肉の下から、たぶんそれが大腿骨であろう思われる、むき出しの白くグロい自身のパーツをもろに目にしました。
 さらに、道路際の歩道には、トレーラーの運転手とおぼしき中年の男が、警察官に囲まれたまま、頭を抱えて座り込んでいる様子ものぞいています。彼は放心状態で、私が助け出されたことも、救急車に積み込まれたことにも、全く気が付かない様子でした。実はトレーラードライバー、その前の週にも別の場所で、同様の衝突事故を起こしていたらしく、私のことよりも、自分の運転免許が取り消されてしまうことをひどく心配していたのです。それにしても、2週連続の正面衝突とは、このドライバーさんも、相当運が悪かったとして言いようがありません。

 しかし、おかげさまで、危ういところで私は命をつなぎ止め、左足切断という深刻なダメージを受けずにすみました。まあ、おろしたての新車であるスズキGSX250は、残念ながらそれでお釈迦になってしまいましたが。
 ただ、実際、先にもお話ししたとおり、トレーラーとバイクが衝突した瞬間、左太ももがバイクの車体とバンパーにはさまれ、まっぷたつに裂けてしまったものの、私の身体は運良くトレーラーの真下に吸い込まれたらしいのです。付け加えるならば、ふとももの断裂に加えて、下腿骨(いわゆるすねの骨)もその衝突でぽっきり折れておりましたが、いずれにしても左足がちぎれなかった事は幸いでした。
 
 後に救急病院に搬送され、緊急手術を執刀した医師も、こうつぶやいていました。
「あんな事故で、よ~く、左足がちぎれなかったものだねえ。」

 しかしながら医師は、ふむふむと感心しつつも、傷口に大量の消毒液を流し込みむと、麻酔もせずに、めくれあがってパックリ口を開いたままの汚れた傷口と、つぶれたように断裂した大腿筋を、医療用手袋はめた両指で、遠慮もなく、ぐちゃぐちゃともみ洗いし始めたのです。

「ぎゃー」という私の叫び声がオペ室に響きました。それまで経験したことのない想像を絶する痛みのために、手術台から飛び上がりかけた自分の身体には、前もって二人の若い看護婦(当時はそう呼んでいましたね。)が、なぜか跨がっていたのです。オペ室に運ばれるとすぐ、私の身体に二人の看護婦が跨がりました。

治療前なのに何ゆえ?
ベッドの上に横たえられた傷だらけの患者に、どうしてうら若い看護婦が、しかも上半身と下半身の二カ所に跨がって全力で押さえつけようとするの?

そんな素朴すぎる疑問は、すぐに解けました。(大量の消毒薬で、ぐちゃぐちゃの傷口についた泥を洗い流すため、その患部をもみ洗いされたとしたら、みなさんどんな感じだと思います?)

 何はともあれ、骨折して、背中から両腕の皮膚がずるむけの、悲惨な状態の私ではあっても、その未だかつて経験したことのない、想像を絶する痛みに対しては、身体が無意識に反応してしまうのです。裂けて血みどろの筋繊維を、中年医師がもみ洗いするたびに、身体全体が痛みから必死で逃げようとしてしまいます。
 そんな痛みもがく私の有様に、中年の医師は、傷口から真っ赤に染まった医療用手袋をいったん引き抜くと、暴れ続けようとする私に向かって、極めて静かにかつ、事務的にこう告げました。

「左足、今すぐ洗わないと、破傷風で切断しなけりゃならなくなるけど、それでいいの?」

だから、わたしはその一言で、生涯味わったことのない、とてつもない痛みに必死で耐えました。

顛末(エピローグ)

 事故当日、夜10時を過ぎた頃になり、入院することになったその病室に、当時まだ40代半ばを迎えたばかりの両親がひょっこり現れました。そして、ふたりの目にはなぜか涙が光っていました。

「あー。生きていたよ。」
たしか、そんなことを二人はつぶやいていたと思います。一緒に見舞いに来てくれた親戚の者たちと共に、病室の扉の向こうで泣きながら笑っている両親がぼんやりたたずんでいました。
この病院から自宅までは、急げば車で40分くらいの距離です。そういえば父母の見舞いに来るのが遅いなあ、とは思いつつも、麻酔が切れかけ縫い合わせたばかりの傷口の痛みと、ギプスで固定されている折れたすねの痛みに私は足音にさえ飛び上がるような有様です。

「トレーラーと正面衝突して、救急車で運ばれたって言うから……」
今は鬼籍に入ってしまった父親が、涙声で笑っていました。父親の涙を見たのは、後にも先にも、その時たった一度限りです。

「助かったとは誰も思わなかったから、来るのが遅れちゃって、ごめんな」
普段から優しい叔母たちがそう付け加えてくれました。

 あの事故から、今年でちょうど35年が経ちました。その後、私は一年もの間その救急病院に入院し、またさらに一年リハビリと通院を続けた末、どうにかこうにか、ぴょこぴょことではありますが、人並みに歩くことができるまで回復しました。

それでは、オートバイにはそれきり乗らなくなってしまったかというと、いえいえ、その事故から2年後には再び新しいバイクに跨がっていました。しかも、今度はそれまでの中型免許ではなく、大型自動二輪、いわゆる限定解除の免許を晴れて27歳の時に取得したのです。(そのことについては、また改めて)

 ようやく元通り歩けるようになった途端にオートバイにすり寄り、しかも今度はビッグバイクに乗ろうとしているなんて、あの頃の両親と同じ年齢になって今更ながらに自分のわがままを恥ずかしいと感じます。それでも、オートバイをこよなく愛し、休日にはバイクのボディを磨く子供の姿に、結局のところ両親は観念したのかもしれません。(そう信じたい。)
 
 おかげさまで、限定解除の免許を取得してからは、ヤマハのFZX750 V-MAX1300ccやらホンダのCB-1100ccなど、数限りなく乗りたいバイクを見つけては、今も颯爽と?風の中を走り抜けています。

 残念ながら、今でもあの事故と同じように、時々はひやっとする瞬間はあります。しかし、けして無理をせず、(ロングツーリングはさすがに出かけなくなってきましたが)近場にある安全な国道や、短い区間の高速道路を今ものんびりと愛車でクルージングしています。
 
 みなさんも、快適で安全なオートバイライフを楽しんで下さいね。

 

 

忘れてはいけない 全日空機雫石衝突事故

全日空機雫石衝突事故とは

全日空機雫石衝突事故」とは日本で発生した、これまでで2番目に犠牲者の多い航空機事故です。(1番目はもちろん、乗員乗客520名が犠牲となった1985年8月12日、群馬県御巣鷹山に墜落した日本航空123便の航空事故です)

今から47年前の1971年7月30日午後2時2分頃、岩手県盛岡市雫石町の上空約8500mで、航空自衛隊の訓練生が操縦するF-86F戦闘機に千歳発羽田行きの全日空機58便が空中衝突し、全日空機に搭乗していた乗員・乗客162名全員が犠牲となりました。今年は、そんな悲惨な事故後、ちょうど47年忌に当たります。

被害の状況

7月30日午後1時25分、予定時刻より45分遅れて千歳空港を飛び立った全日空機ボーイング727には、乗客155名と機長や客室乗務員7名の乗員が搭乗していました。ちょうどほぼ同じ時刻、午後1時28分に,航空自衛隊松島基地を離陸したF-86戦闘機は,2機で訓練飛行のため編隊飛行を行っていました。
午後2時2分頃,岩手県岩手山付近の、視界良好な上空約8500mで、2機が空中衝突しました(事故調査委員会の報告によれば、自衛隊機に全日空機が衝突した)。

衝突後2機はともに操縦不能となります。自衛隊機を操縦していた訓練生は、間一髪で脱出し無事パラシュートで着地しました。
一方の全日空機は、降下速度が加速し、ついには「音速の壁」を突破したことにより、上空約5000m付近で空中分解して墜落しました。その結果、乗員・乗客の162名全員が死亡しました。
衝突時の白煙や空中分解した様子など、偶然事故を目撃した付近の住民は

黒い豆のようなものが落ちてきた

と証言しています。しかし、実のところ黒い豆粒のように見えたのは、乗員乗客のばらばらになった遺体でした。そのために、雫石町立安庭小学校のある西安庭小学校地区を中心とした雫石町内の各地に、全日空機の残骸とともに遺体は落下し、極めて凄惨な現場と化しました。また,落下した全日空機の車輪の残骸が、民家の屋根に直撃し、当時81歳の住民の女性が負傷しました。

凄惨な現場

墜落の衝撃による火災が発生しなかったため、犠牲者の身元は比較的早く判明しました。
しかし、高度5000m付近から高速で地面に叩きつけられたため遺体の損傷が激しく、現場は極めて凄惨な状況であったと言うことです。

ほとんどのご遺体はばらばらの肉塊と化し、山一帯に降りそそぎました。地元の消防団や付近住民まで狩り出され、遺体の捜索収集にあたりました。

特に、最前線で捜索に当たった自衛隊の若い隊員たちは、そのあまりの惨状に茫然自失となります。かろうじて立ち尽くすも「人間の姿を彷彿させる肉塊」を輪の中心に、そのまま身動きがとれなくなりました。辺り一帯が肉の破片と血で赤く染まり、さながら地獄絵図の様相だったのです。


さらに、あまりに高度上空から落下したためにほとんどの遺体は何も身につけておらず、辺り一帯の樹木には「乗客の下着や服など」がまるで仙台の七夕祭りの飾り付けのように、そこら中にぶら下がっていたと捜索に当たっていた自衛隊員が後に述べています。


また、現場には土産に買ったであろう熊のぬいぐるみやお菓子・財布やめがねなど犠牲者の持ち物が散乱しています。その中には、衝突の衝撃で上半身が地中に突き刺さったままの遺体や、落下の重力によって数メートルにも伸びた遺体など、通常の事故では想像できないような悲惨な「しかばね」が散乱していました。

子どもの遺体が発見される一方で、赤いマニキュアからそこに横たわる亡骸が乗員のスチュワーデスの遺体であることも判明しました。
(以上事故の概況は「wikipedia」より参照)

このように悲惨な航空機事故も、47年の歳月が過ぎる間に人々の記憶から消えていきつつあります。
特に、地元ではこの忌まわしい事故が発生した現場であることを忘れ去りたいのは当然でしょう。しかし、犠牲となった乗客162名全員のためにも、これからもこの痛ましい「全日空機雫石衝突事故」を忘れてはいけないのです。

事故現場には、現在「慰霊の森」が整備され、無念の内にお亡くなりになった犠牲者の魂を今も慰めています。

雫石事故から47年

こうした悲しい歴史のある現場には、物見遊山や安易な気持ちでけして訪れてはいけません。
しかし、不思議なこともあるものです。
この夏、私の身内で教員をしている甥(「純ちゃん」と呼びます)が、偶然にもこの雫石町の現場を訪れました。純ちゃんには、もともと母親譲りのいわゆる「霊感」というものが生まれつき備わっているようで、これまでにも度々「得がたい経験」をしてきています。(例えば、山形駅前のホテルに宿泊したときには、老婆の悪霊?に取り殺されそうになったり、亡くなった祖母の霊を見かけたりと、本人も最近までさほど自覚していませんでしたが、相当霊感が強いようです。)

そんな純ちゃん先生のことですから、雫石事故のことは相当以前から知っていました。だから、彼にしてみれば雫石は、よほどのことがないかぎり「絶対に行ってはいけない場所ランキング」上位の現場らしかったのです。

しかし、そんな臆病な彼が、どうしてそんな場所へ?
この夏偶然にも、しかも空中衝突事故の発生から47年たったたったとはいえ、あろうことか事後前日の7月29日と事故当日30日に、純ちゃんはこの雫石を訪れることになってしまったのです。

不思議な因縁に導かれ

実は純ちゃん、今から30年ほど前に、一度だけ雫石の隣町にある超有名な観光地である「小岩井農場」に遊びに来たことがあります。
空中衝突事故から、また十数年しか経っていない頃のことです。付近住民の皆様にとっては、今よりも事故の記憶は生々しかったに違いなかったことでしょう。

しかし、他人よりも多少霊感が強いとはいえ大学生で遊び盛りの純ちゃんには、訪れた牧場の隣町である雫石に関する知識は皆無。全く脳天気にアイスクリームのおいしさに舌鼓をうち、美しい牧場での一日を楽しんでいたと言うことです。

ただ、初めて友達数人と訪れたこの岩手の山間地で、純ちゃんは何か他の観光地では感じられない、ある種言いようのない「胸騒ぎ」を覚えたことだけは30数年経った今でも記憶していると証言しています。

「この場所は、他とは全然雰囲気が違っている」

それだけは感じたようですが、まさかそこから数キロしか離れていない場所で、そんな悲惨な大事故が発生していたとは、当時の純ちゃんには想像すらできなかったのも無理はありません。
しかし、知らぬ事とはいえなんてのんきな大学生だったのでしょう。

その後、衝突事故発生からから47年が経ちました。
前回この場所にやって来てから30年間、事故のあらましを知った純ちゃんは、自分なりに考えたのでしょう。それ以降一度たりと、この雫石の現場とその周辺の観光地には、けして近づくことはありませんでした。
いや、むしろ怖くて近づくことができない、そして、絶対に近づいてはいけない場所として、雫石は彼を遠ざけていたのかもしれません。

そんな純ちゃんが、この雫石の鶯宿温泉を訪れたのには全くの偶然が重なったようです。この夏、職場の慰安旅行が7月の月末29.30日に計画されました。
もともと旅行先は「鵜飼い」で有名な下呂温泉に決まっていました。ところが、ご存じの通り、この夏西日本一体を襲った集中豪雨で、寸前になって急遽旅行先が変更となってしまったのです。
幹事の一人である純ちゃん、本来なら旅行先並びに宿泊先については旅先を決定する責任者の一員です。

しかし、急な変更とあって新幹線の切符のキャンセルや旅行会社との交渉は、先輩幹事長に一任となってしまいました。

やがて、幹事長単独で決定した「旅行企画書」がメールで配信されて、純ちゃんはびっくり仰天。

「え?雫石町の鶯宿温泉?ここって、例の全日空機事故の現場のすぐ近くじゃん?」

しかし、いやしくも幹事の一員たる純ちゃんです。今さらこの旅行をキャンセルする訳にもいきません。しかも、何も知らない先輩幹事長への気兼ねもあって、渋々純ちゃんはこの旅行に参加しました。

こうして始まった一泊二日の東北旅行。総勢20数名の社員一行は、すでに車中で口にしたアルコールでしたたか酩酊気味。ちょうどその日は墜落現場付近で夏祭りも予定されているらしく、にぎやかな人だかりがあちこちに見られました。
雲ひとつ無いみちのくの青空が広がり、山肌が青く光る穏やかな農村風景が続いています。

ところが、そんな中で一人ただならぬ雰囲気を肌で感じ始めた純ちゃんには、車窓から浮かび上がるのどかな田園地帯も心に重くのしかかります。バスの先頭に幹事として座っていた純ちゃんが、妙齢のバスガイドにおそるおそる尋ねました。

「このあたりが、全日空機の事故現場ですよね? }

純ちゃんのその問いに、よわい60歳はとうに過ぎていると思われるバスガイドさん(それにしてもバス会社、どうしてこんな高年齢の女性を働かせているんだ?)の顔が一瞬曇ります。

しかし、やがて観念したかのように、ぽつぽつとお婆ガイドさんは語り始めました。

「会社からはお客さんから聞かれない限り、もうこの事故のことを話さないように言われているんですが」

と前置きした上で、

「ご存知のように、今から40数年前、この付近の上空で全日空機と自衛隊機が空中で衝突し、162名の尊い命が亡くなりました。」

そして、車窓からのぞく一番手前にある間近な山の上空を指さしながら

「ちょうどこの山の上空、数千メートルで衝突しました」

事故とホテルと顛末と

婆やんバスガイド(ごめんね、そう呼んで)は、とびっきりのマル秘情報を小声で、しかもさらりと説明するとそれ以後事故に関しては二度と触れようとはしません。
というよりも、バスは婆やんが説明しているほんの数分の間に、すでに今夜泊まるホテルに到着してしまったからです。(それほど今回の慰安旅行の宿泊先が、現場に近かったということです)

とりつくしまのないバスガイドに困惑しながらも、純ちゃんたち一行はその日の宿泊先である鶯宿温泉のとあるホテルに到着しました。
やや熱めながらも、透明なお湯がこんこんと湧き出る東北の名湯です。こんなのどかな田舎で、今から数十年前に陰惨な飛行機事故があったなどと、誰が思うでしょう。露天風呂にゆっくりつかりながら純ちゃんは、昼間のバスガイドの曇った表情を忘れようと努めました。

やがて、あたりが夕闇に包まれる頃予定通り飲めや歌えの大宴会が催されました。幹事の大任も無事終えた純ちゃん。温泉街もこのホテル周辺にはまったく見当たらず、ナイトキャップでもひっかけて眠りにつこうかとも考え始めました。
けれど、せっかく泊まった温泉ホテル。ふだん医者からは絶対だめと言われている「しめのラーメン」をせめて純ちゃんは食べようと、1階にある居酒屋ののれんをくぐりました。

鳥だしの効いたうまいラーメンを食べ終えた純ちゃんは、ふと年齢50代とおぼしき女性店員(仲居さんか?)に、聞くとはなしに例の事故について問いかけてみました。

「たしか、この近くで全日空機の飛行機事故があったんですよね?」

すると、その途端にやはりまたもや一瞬悲しげに瞳を伏せたおばちゃん店員は

「ええ、実はこのホテルに捜索本部が置かれたんですよ。ほら、ちょうど明日が事故の当日でしょう。だから今夜は、たくさんの遺族や関係者が宿泊されているんですよ。」

「え?え-?」

それを聞いた純ちゃん、しばし絶句。
そう言われてみると、風呂場でもなんとなく高齢のお客さんが多かったな。それから、妙に青々と丸刈りにした、まさにその関連と思われる職種の客が何人も湯船に浸かっていたぞ。だけど、まさか明日7月30日が、あの事故の発生当日だったとは。

そして、何よりの極めつけが「事故対策本部」ですってえ?。

しかもよりによって、今こうして宿泊しようとしているこのホテルに、まさか40数年前「遺体捜索」のための「事故対策本部」が置かれていたとは。とほほー。
JTBの若き添乗員君。あなたは、何て言う旅行プランを僕たちに提供してくれたのだ?

二度と事故を繰り返さないために(あとがき)

さて、その後ほろ酔い気分などとっくに吹き飛んだ純ちゃん。しかし、,ふと思い浮かべてみると、なぜホテルに到着した時、くだんの「婆やんバスガイド」(くりかえしすみません)があれほど曇った顔をしていたのか、それがようやく今になって純ちゃんにも分かってきました。

それと同時に、何より自分自身がこの30数年もの間、あれほど頑なにこの地には近づいてはならないと考えてきたのか。さらに、近づくことさえためらっていたこの雫石に、偶然とはいえ自分は今回やって来てしまったのか。そのわけに、やっと純ちゃんは気づいたようでした。

このたおやかで美しい東北の田舎町。しかし、今からから47年前、まぎれもなく想像するのさえためらわれるほどの悲惨で哀しい航空機事故が発生しました。
その事実を、我々はけして忘れてはならないのです。
そして、誰かがこの悲惨な事故をこれからも後生まで伝え続けなければならないということも。

それが、あの空中衝突事故で犠牲になった尊い162名の御霊に報いるせめて唯一の方法であるということに、純ちゃんは少しだけ気づいたのかもしれません。
加えて言うならば、この世にはやはり目には見えない「因縁」というものがあるんだなということを、今更ながらに純ちゃんも体験したのでしょう。

翌日も快晴の夏晴れ。帰り道すがら、走り出すバスの中で一人純ちゃんは、もう一度あらためて空中衝突の事故現場となった青い山並み上空に、そっと手を合わせました。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。犠牲者の皆様、どうか今は安らかにお休み下さい」

そう心の中で念じました。

そんな殊勝な気持ちが、あちらの皆様にもちょっとだけ通じたのでしょう。純ちゃんはその晩、何事もなく無事に朝までぐっすりと眠れたということです。

幸いにも、以前山形駅前の古ホテルで体験したような、思い出すだけでもおぞましい経験を今回は味わわずにすんだようでした。めでたしめでたし。