忘れてはいけない 全日空機雫石衝突事故

Pocket

全日空機雫石衝突事故とは

全日空機雫石衝突事故」とは日本で発生した、これまでで2番目に犠牲者の多い航空機事故です。(1番目はもちろん、乗員乗客520名が犠牲となった1985年8月12日、群馬県御巣鷹山に墜落した日本航空123便の航空事故です)

今から47年前の1971年7月30日午後2時2分頃、岩手県盛岡市雫石町の上空約8500mで、航空自衛隊の訓練生が操縦するF-86F戦闘機に千歳発羽田行きの全日空機58便が空中衝突し、全日空機に搭乗していた乗員・乗客162名全員が犠牲となりました。今年は、そんな悲惨な事故後、ちょうど47年忌に当たります。

被害の状況

7月30日午後1時25分、予定時刻より45分遅れて千歳空港を飛び立った全日空機ボーイング727には、乗客155名と機長や客室乗務員7名の乗員が搭乗していました。ちょうどほぼ同じ時刻、午後1時28分に,航空自衛隊松島基地を離陸したF-86戦闘機は,2機で訓練飛行のため編隊飛行を行っていました。
午後2時2分頃,岩手県岩手山付近の、視界良好な上空約8500mで、2機が空中衝突しました(事故調査委員会の報告によれば、自衛隊機に全日空機が衝突した)。

衝突後2機はともに操縦不能となります。自衛隊機を操縦していた訓練生は、間一髪で脱出し無事パラシュートで着地しました。
一方の全日空機は、降下速度が加速し、ついには「音速の壁」を突破したことにより、上空約5000m付近で空中分解して墜落しました。その結果、乗員・乗客の162名全員が死亡しました。
衝突時の白煙や空中分解した様子など、偶然事故を目撃した付近の住民は

黒い豆のようなものが落ちてきた

と証言しています。しかし、実のところ黒い豆粒のように見えたのは、乗員乗客のばらばらになった遺体でした。そのために、雫石町立安庭小学校のある西安庭小学校地区を中心とした雫石町内の各地に、全日空機の残骸とともに遺体は落下し、極めて凄惨な現場と化しました。また,落下した全日空機の車輪の残骸が、民家の屋根に直撃し、当時81歳の住民の女性が負傷しました。

凄惨な現場

墜落の衝撃による火災が発生しなかったため、犠牲者の身元は比較的早く判明しました。
しかし、高度5000m付近から高速で地面に叩きつけられたため遺体の損傷が激しく、現場は極めて凄惨な状況であったと言うことです。

ほとんどのご遺体はばらばらの肉塊と化し、山一帯に降りそそぎました。地元の消防団や付近住民まで狩り出され、遺体の捜索収集にあたりました。

特に、最前線で捜索に当たった自衛隊の若い隊員たちは、そのあまりの惨状に茫然自失となります。かろうじて立ち尽くすも「人間の姿を彷彿させる肉塊」を輪の中心に、そのまま身動きがとれなくなりました。辺り一帯が肉の破片と血で赤く染まり、さながら地獄絵図の様相だったのです。


さらに、あまりに高度上空から落下したためにほとんどの遺体は何も身につけておらず、辺り一帯の樹木には「乗客の下着や服など」がまるで仙台の七夕祭りの飾り付けのように、そこら中にぶら下がっていたと捜索に当たっていた自衛隊員が後に述べています。


また、現場には土産に買ったであろう熊のぬいぐるみやお菓子・財布やめがねなど犠牲者の持ち物が散乱しています。その中には、衝突の衝撃で上半身が地中に突き刺さったままの遺体や、落下の重力によって数メートルにも伸びた遺体など、通常の事故では想像できないような悲惨な「しかばね」が散乱していました。

子どもの遺体が発見される一方で、赤いマニキュアからそこに横たわる亡骸が乗員のスチュワーデスの遺体であることも判明しました。
(以上事故の概況は「wikipedia」より参照)

このように悲惨な航空機事故も、47年の歳月が過ぎる間に人々の記憶から消えていきつつあります。
特に、地元ではこの忌まわしい事故が発生した現場であることを忘れ去りたいのは当然でしょう。しかし、犠牲となった乗客162名全員のためにも、これからもこの痛ましい「全日空機雫石衝突事故」を忘れてはいけないのです。

事故現場には、現在「慰霊の森」が整備され、無念の内にお亡くなりになった犠牲者の魂を今も慰めています。

雫石事故から47年

こうした悲しい歴史のある現場には、物見遊山や安易な気持ちでけして訪れてはいけません。
しかし、不思議なこともあるものです。
この夏、私の身内で教員をしている甥(「純ちゃん」と呼びます)が、偶然にもこの雫石町の現場を訪れました。純ちゃんには、もともと母親譲りのいわゆる「霊感」というものが生まれつき備わっているようで、これまでにも度々「得がたい経験」をしてきています。(例えば、山形駅前のホテルに宿泊したときには、老婆の悪霊?に取り殺されそうになったり、亡くなった祖母の霊を見かけたりと、本人も最近までさほど自覚していませんでしたが、相当霊感が強いようです。)

そんな純ちゃん先生のことですから、雫石事故のことは相当以前から知っていました。だから、彼にしてみれば雫石は、よほどのことがないかぎり「絶対に行ってはいけない場所ランキング」上位の現場らしかったのです。

しかし、そんな臆病な彼が、どうしてそんな場所へ?
この夏偶然にも、しかも空中衝突事故の発生から47年たったたったとはいえ、あろうことか事後前日の7月29日と事故当日30日に、純ちゃんはこの雫石を訪れることになってしまったのです。

不思議な因縁に導かれ

実は純ちゃん、今から30年ほど前に、一度だけ雫石の隣町にある超有名な観光地である「小岩井農場」に遊びに来たことがあります。
空中衝突事故から、また十数年しか経っていない頃のことです。付近住民の皆様にとっては、今よりも事故の記憶は生々しかったに違いなかったことでしょう。

しかし、他人よりも多少霊感が強いとはいえ大学生で遊び盛りの純ちゃんには、訪れた牧場の隣町である雫石に関する知識は皆無。全く脳天気にアイスクリームのおいしさに舌鼓をうち、美しい牧場での一日を楽しんでいたと言うことです。

ただ、初めて友達数人と訪れたこの岩手の山間地で、純ちゃんは何か他の観光地では感じられない、ある種言いようのない「胸騒ぎ」を覚えたことだけは30数年経った今でも記憶していると証言しています。

「この場所は、他とは全然雰囲気が違っている」

それだけは感じたようですが、まさかそこから数キロしか離れていない場所で、そんな悲惨な大事故が発生していたとは、当時の純ちゃんには想像すらできなかったのも無理はありません。
しかし、知らぬ事とはいえなんてのんきな大学生だったのでしょう。

その後、衝突事故発生からから47年が経ちました。
前回この場所にやって来てから30年間、事故のあらましを知った純ちゃんは、自分なりに考えたのでしょう。それ以降一度たりと、この雫石の現場とその周辺の観光地には、けして近づくことはありませんでした。
いや、むしろ怖くて近づくことができない、そして、絶対に近づいてはいけない場所として、雫石は彼を遠ざけていたのかもしれません。

そんな純ちゃんが、この雫石の鶯宿温泉を訪れたのには全くの偶然が重なったようです。この夏、職場の慰安旅行が7月の月末29.30日に計画されました。
もともと旅行先は「鵜飼い」で有名な下呂温泉に決まっていました。ところが、ご存じの通り、この夏西日本一体を襲った集中豪雨で、寸前になって急遽旅行先が変更となってしまったのです。
幹事の一人である純ちゃん、本来なら旅行先並びに宿泊先については旅先を決定する責任者の一員です。

しかし、急な変更とあって新幹線の切符のキャンセルや旅行会社との交渉は、先輩幹事長に一任となってしまいました。

やがて、幹事長単独で決定した「旅行企画書」がメールで配信されて、純ちゃんはびっくり仰天。

「え?雫石町の鶯宿温泉?ここって、例の全日空機事故の現場のすぐ近くじゃん?」

しかし、いやしくも幹事の一員たる純ちゃんです。今さらこの旅行をキャンセルする訳にもいきません。しかも、何も知らない先輩幹事長への気兼ねもあって、渋々純ちゃんはこの旅行に参加しました。

こうして始まった一泊二日の東北旅行。総勢20数名の社員一行は、すでに車中で口にしたアルコールでしたたか酩酊気味。ちょうどその日は墜落現場付近で夏祭りも予定されているらしく、にぎやかな人だかりがあちこちに見られました。
雲ひとつ無いみちのくの青空が広がり、山肌が青く光る穏やかな農村風景が続いています。

ところが、そんな中で一人ただならぬ雰囲気を肌で感じ始めた純ちゃんには、車窓から浮かび上がるのどかな田園地帯も心に重くのしかかります。バスの先頭に幹事として座っていた純ちゃんが、妙齢のバスガイドにおそるおそる尋ねました。

「このあたりが、全日空機の事故現場ですよね? }

純ちゃんのその問いに、よわい60歳はとうに過ぎていると思われるバスガイドさん(それにしてもバス会社、どうしてこんな高年齢の女性を働かせているんだ?)の顔が一瞬曇ります。

しかし、やがて観念したかのように、ぽつぽつとお婆ガイドさんは語り始めました。

「会社からはお客さんから聞かれない限り、もうこの事故のことを話さないように言われているんですが」

と前置きした上で、

「ご存知のように、今から40数年前、この付近の上空で全日空機と自衛隊機が空中で衝突し、162名の尊い命が亡くなりました。」

そして、車窓からのぞく一番手前にある間近な山の上空を指さしながら

「ちょうどこの山の上空、数千メートルで衝突しました」

事故とホテルと顛末と

婆やんバスガイド(ごめんね、そう呼んで)は、とびっきりのマル秘情報を小声で、しかもさらりと説明するとそれ以後事故に関しては二度と触れようとはしません。
というよりも、バスは婆やんが説明しているほんの数分の間に、すでに今夜泊まるホテルに到着してしまったからです。(それほど今回の慰安旅行の宿泊先が、現場に近かったということです)

とりつくしまのないバスガイドに困惑しながらも、純ちゃんたち一行はその日の宿泊先である鶯宿温泉のとあるホテルに到着しました。
やや熱めながらも、透明なお湯がこんこんと湧き出る東北の名湯です。こんなのどかな田舎で、今から数十年前に陰惨な飛行機事故があったなどと、誰が思うでしょう。露天風呂にゆっくりつかりながら純ちゃんは、昼間のバスガイドの曇った表情を忘れようと努めました。

やがて、あたりが夕闇に包まれる頃予定通り飲めや歌えの大宴会が催されました。幹事の大任も無事終えた純ちゃん。温泉街もこのホテル周辺にはまったく見当たらず、ナイトキャップでもひっかけて眠りにつこうかとも考え始めました。
けれど、せっかく泊まった温泉ホテル。ふだん医者からは絶対だめと言われている「しめのラーメン」をせめて純ちゃんは食べようと、1階にある居酒屋ののれんをくぐりました。

鳥だしの効いたうまいラーメンを食べ終えた純ちゃんは、ふと年齢50代とおぼしき女性店員(仲居さんか?)に、聞くとはなしに例の事故について問いかけてみました。

「たしか、この近くで全日空機の飛行機事故があったんですよね?」

すると、その途端にやはりまたもや一瞬悲しげに瞳を伏せたおばちゃん店員は

「ええ、実はこのホテルに捜索本部が置かれたんですよ。ほら、ちょうど明日が事故の当日でしょう。だから今夜は、たくさんの遺族や関係者が宿泊されているんですよ。」

「え?え-?」

それを聞いた純ちゃん、しばし絶句。
そう言われてみると、風呂場でもなんとなく高齢のお客さんが多かったな。それから、妙に青々と丸刈りにした、まさにその関連と思われる職種の客が何人も湯船に浸かっていたぞ。だけど、まさか明日7月30日が、あの事故の発生当日だったとは。

そして、何よりの極めつけが「事故対策本部」ですってえ?。

しかもよりによって、今こうして宿泊しようとしているこのホテルに、まさか40数年前「遺体捜索」のための「事故対策本部」が置かれていたとは。とほほー。
JTBの若き添乗員君。あなたは、何て言う旅行プランを僕たちに提供してくれたのだ?

二度と事故を繰り返さないために(あとがき)

さて、その後ほろ酔い気分などとっくに吹き飛んだ純ちゃん。しかし、,ふと思い浮かべてみると、なぜホテルに到着した時、くだんの「婆やんバスガイド」(くりかえしすみません)があれほど曇った顔をしていたのか、それがようやく今になって純ちゃんにも分かってきました。

それと同時に、何より自分自身がこの30数年もの間、あれほど頑なにこの地には近づいてはならないと考えてきたのか。さらに、近づくことさえためらっていたこの雫石に、偶然とはいえ自分は今回やって来てしまったのか。そのわけに、やっと純ちゃんは気づいたようでした。

このたおやかで美しい東北の田舎町。しかし、今からから47年前、まぎれもなく想像するのさえためらわれるほどの悲惨で哀しい航空機事故が発生しました。
その事実を、我々はけして忘れてはならないのです。
そして、誰かがこの悲惨な事故をこれからも後生まで伝え続けなければならないということも。

それが、あの空中衝突事故で犠牲になった尊い162名の御霊に報いるせめて唯一の方法であるということに、純ちゃんは少しだけ気づいたのかもしれません。
加えて言うならば、この世にはやはり目には見えない「因縁」というものがあるんだなということを、今更ながらに純ちゃんも体験したのでしょう。

翌日も快晴の夏晴れ。帰り道すがら、走り出すバスの中で一人純ちゃんは、もう一度あらためて空中衝突の事故現場となった青い山並み上空に、そっと手を合わせました。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。犠牲者の皆様、どうか今は安らかにお休み下さい」

そう心の中で念じました。

そんな殊勝な気持ちが、あちらの皆様にもちょっとだけ通じたのでしょう。純ちゃんはその晩、何事もなく無事に朝までぐっすりと眠れたということです。

幸いにも、以前山形駅前の古ホテルで体験したような、思い出すだけでもおぞましい経験を今回は味わわずにすんだようでした。めでたしめでたし。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です