オートバイと夏の終わり

あれほど暑かった夏が、まるでうそのような日が続いています。
今年の夏は、オートバイに乗る者にとって、つらい夏でした。オートバイは「風を切って」頬をよぎるその心地良さを味わえるのが、本来の楽しみのはずです。
ところが、気温40度の熱風は、とても「心地良い」というレベルのものであるはずはなく。我が愛車も7月初めから、8月現在まで、一度も出庫することなく、車庫で静かに眠っています。こんな時には、これまで出かけたツーリングの思い出でも少し紐解いてみますね。でも、これからお話しするのは、ちょっぴり苦い思い出なんですが。

夏の終わりと日光ツーリング

 それは、今からもう30年前の出来事になります。
 8月後半のある晴れた日の午前、当時大学4年生だった私は、夏休み最後の思い出として、奥日光へひとりソロツーリングに出かけました。日光ツーリングは、当時私が最も好きだったコースのひとつです。その日も、愛車スズキGSX250にまたがり、東北自動車道路栃木ICから高速道へ入り、宇都宮ICを経由して日光宇都宮道路へ。その日は、平日の昼下がりとあって、交通量も少なく、快適なクルージングを楽しむことができました。
 やがて、いくつかの料金所やトンネルをくぐり抜けると「いろは坂」。後方から爆音響かせ追い越していく「かっ飛び野郎」など、まったく気にもせず、ただひたすらに心地よい、高原の冷気を胸一杯に吸い込みながら、ワインディングロードを無理ないスピードで上り詰めていきました。長いトンネルを下り、赤い大鳥居が左手に見え始めれば、ほどなく中禅寺湖畔です。
 どこまでも澄み切った青空と、高原の湖。午後の柔らかな日差しが、まぶしく湖面に降り注いでいます。私は、湖の近くにあるパーキングにバイクを停めヘルメットを外すと、ライディングスーツの胸ポケットから、セブンスターパッケージを取り出しました。そうしてくわえた煙草に火を点けて、胸の奥まで煙を吸い込みます。
「うーん、この一服がたまらない。」
 ふーと煙を吐き出しつつ、そうやってオートバイに乗る楽しみを改めて実感していました。好みのワインレッドの車体は、まだ新車のおろしたてで、ぴかぴかに磨き込んでいました。このボディ全体の深い朱色が気に入って、この車種を決めたのだけれど、4サイクルエンジンの振動が、またすこぶる心地いい。そんな至福の時をいつも通り過ごしていたのです。
 今振り返れば、当時大学生だった自分は、時間を見つけては、そんな他愛のない瞬間のために、2時間近くもアクセル握って、ただひたすら高速道路を走り抜けていたんですね。

悪夢の瞬間

 8月とはいえ、湖面を吹き抜ける風は、平地のそれとは明らかに違い、肌寒さを感じさせました。自販機で買った缶コーヒーを飲み干すと、再びヘルメットをかぶってアクセルオン。中禅寺湖の水面を左目で眺めながら、右岸を戦場ヶ原へ。赤沼のお土産屋さんは、当時も今と変わらぬたたずまいでそこにぽつんとたたずんでいます。右手にある県営駐車場にGSXをすべりこませると、その日のツーリングもそこでUターン。あとは安全に帰路につくだけでした。
 中禅寺湖からいろは坂を下り、日光道路経由で東北道へ。栃木インターを降りる頃には、すでに午後4時を回っていたと思います。夕暮れは「逢魔が時」、昔からそんな迷信を信じていた訳ではないけれど、母親譲りの「霊感」が、ほんの少しだけある自分には、その時間帯の怖さは十分自覚していました。
 ところが、急ぐ理由のないその日のスケジュールのはずが、その日に限って、一度も休憩無しのノンストップで私は走り続けていました。それに加えて、前傾姿勢で少しだけ疲れたせいか、さっきからなんとなく眠気も感じている。睡魔はバイク乗りにとって絶対に厳禁、そんな最低限の戒めもうつらうつらし始めた意識の中で薄れていきます。それでも、なんとか、必死にまぶたをこじ開けながら

「がんばれがんばれ、もうすぐ我が家だ。眠さになんか負けないぞ。」

心の中で繰り返し、そう自分に言い聞かせながら、グリップを握り直したはずでした。
 やがて、愛車は普段から走り慣れている、栃木県と茨城県との県境にある小さな地方都市、Y市の市街地を進み始めました。右手に歯医者がある、やや左カーブの県道に、ちょうどGSX250ccがさしかかった時のことです。その一瞬不覚にも私は、オートバイのグリップを握りしめたままで、がくっと睡魔に引きずり込まれてしまったのです。
 「はっ。危ない」
と、思ったのも手遅れ。私には、目前に迫る大型トレーラーを避けきれませんでした。スローモーションの映像が流れるように、ワインレッドの車体は横倒しになり、そのまま反対車線にはみ出して、一直線に大型トレーラーのフロントに見事に激突しました。

左足切断?

 目が覚めたのは、それからどれくらいの時が経っていたのか皆目見当もつきません。ただ、気づいた瞬間から、背中と両腕から焼けるような痛みを感じます。お気に入りのライディングスーツも、アスファルトとの激しい摩擦でずたぼろになって、何カ所か破れた上に、両腕のあたりが黒っぽく血に染まっていました。
 
 目を開けて周りを見渡すと、いつの間にか人だかりができているようです。

「あっ、目をあけたぞ。生きてるようだ。」

私の様子を近くでうかがっていた中年の男性が、急にそう叫びました。

「救急車はまだか?だれか、体をダンプの下からひき出してやれよ。」

 くちぐちに自分の意見を述べあっているようですが、集まった野次馬の誰一人として、トレーラーの真下で血まみれになっている私を、助け出そうという勇気のある人はいません。
 
 そうこうしている間に、まもなく救急車と消防車、そしてパトカーなど数台が事故現場に到着し、ようやく私の救出作業が始まりました。後で分かったことですが、私が運が良かったのは、トレーラーと正面衝突する寸前、無意識にバイクの車体を横滑りさせたことでした。
 ご存知の通り、トレーラーは大型になればなるほど、そのバンパーが地面から高い場所に装着されています。そのため、実際にバンパーと地面との間には、40cm程度のすきまができていました。
 そのため、私の乗ったバイクは、トレーラーのバンパーに激しく衝突しながらも、その瞬間、身体だけがバンパーの下をかいくぐり、トレーラーの車体の真下に滑り込んだようでした。しかも、傷だらけのヘルメットをかぶったままの自分の頭の、なんと目前30cmの場所には、トレーラーの巨大な前輪が迫っていました。(もし、あと数秒でもトレーラーのタイヤがスリップしていたら、たぶん私の頭はタイヤにぐちゃぐちゃに踏みつぶされていたかもしれない、そう考えると、30年経った今でもぞっとします。)

 準備が整い、「せえーのっ。」という消防隊員らのかけ声と共に、ジャッキアップされたトレーラーの真下から、力の全く入らない私の身体が引きずり出されました。その時になって初めて私は、左の太ももがぱっくり割れていることや、血みどろに断裂した筋肉の下から、たぶんそれが大腿骨であろう思われる、むき出しの白くグロい自身のパーツをもろに目にしました。
 さらに、道路際の歩道には、トレーラーの運転手とおぼしき中年の男が、警察官に囲まれたまま、頭を抱えて座り込んでいる様子ものぞいています。彼は放心状態で、私が助け出されたことも、救急車に積み込まれたことにも、全く気が付かない様子でした。実はトレーラードライバー、その前の週にも別の場所で、同様の衝突事故を起こしていたらしく、私のことよりも、自分の運転免許が取り消されてしまうことをひどく心配していたのです。それにしても、2週連続の正面衝突とは、このドライバーさんも、相当運が悪かったとして言いようがありません。

 しかし、おかげさまで、危ういところで私は命をつなぎ止め、左足切断という深刻なダメージを受けずにすみました。まあ、おろしたての新車であるスズキGSX250は、残念ながらそれでお釈迦になってしまいましたが。
 ただ、実際、先にもお話ししたとおり、トレーラーとバイクが衝突した瞬間、左太ももがバイクの車体とバンパーにはさまれ、まっぷたつに裂けてしまったものの、私の身体は運良くトレーラーの真下に吸い込まれたらしいのです。付け加えるならば、ふとももの断裂に加えて、下腿骨(いわゆるすねの骨)もその衝突でぽっきり折れておりましたが、いずれにしても左足がちぎれなかった事は幸いでした。
 
 後に救急病院に搬送され、緊急手術を執刀した医師も、こうつぶやいていました。
「あんな事故で、よ~く、左足がちぎれなかったものだねえ。」

 しかしながら医師は、ふむふむと感心しつつも、傷口に大量の消毒液を流し込みむと、麻酔もせずに、めくれあがってパックリ口を開いたままの汚れた傷口と、つぶれたように断裂した大腿筋を、医療用手袋はめた両指で、遠慮もなく、ぐちゃぐちゃともみ洗いし始めたのです。

「ぎゃー」という私の叫び声がオペ室に響きました。それまで経験したことのない想像を絶する痛みのために、手術台から飛び上がりかけた自分の身体には、前もって二人の若い看護婦(当時はそう呼んでいましたね。)が、なぜか跨がっていたのです。オペ室に運ばれるとすぐ、私の身体に二人の看護婦が跨がりました。

治療前なのに何ゆえ?
ベッドの上に横たえられた傷だらけの患者に、どうしてうら若い看護婦が、しかも上半身と下半身の二カ所に跨がって全力で押さえつけようとするの?

そんな素朴すぎる疑問は、すぐに解けました。(大量の消毒薬で、ぐちゃぐちゃの傷口についた泥を洗い流すため、その患部をもみ洗いされたとしたら、みなさんどんな感じだと思います?)

 何はともあれ、骨折して、背中から両腕の皮膚がずるむけの、悲惨な状態の私ではあっても、その未だかつて経験したことのない、想像を絶する痛みに対しては、身体が無意識に反応してしまうのです。裂けて血みどろの筋繊維を、中年医師がもみ洗いするたびに、身体全体が痛みから必死で逃げようとしてしまいます。
 そんな痛みもがく私の有様に、中年の医師は、傷口から真っ赤に染まった医療用手袋をいったん引き抜くと、暴れ続けようとする私に向かって、極めて静かにかつ、事務的にこう告げました。

「左足、今すぐ洗わないと、破傷風で切断しなけりゃならなくなるけど、それでいいの?」

だから、わたしはその一言で、生涯味わったことのない、とてつもない痛みに必死で耐えました。

顛末(エピローグ)

 事故当日、夜10時を過ぎた頃になり、入院することになったその病室に、当時まだ40代半ばを迎えたばかりの両親がひょっこり現れました。そして、ふたりの目にはなぜか涙が光っていました。

「あー。生きていたよ。」
たしか、そんなことを二人はつぶやいていたと思います。一緒に見舞いに来てくれた親戚の者たちと共に、病室の扉の向こうで泣きながら笑っている両親がぼんやりたたずんでいました。
この病院から自宅までは、急げば車で40分くらいの距離です。そういえば父母の見舞いに来るのが遅いなあ、とは思いつつも、麻酔が切れかけ縫い合わせたばかりの傷口の痛みと、ギプスで固定されている折れたすねの痛みに私は足音にさえ飛び上がるような有様です。

「トレーラーと正面衝突して、救急車で運ばれたって言うから……」
今は鬼籍に入ってしまった父親が、涙声で笑っていました。父親の涙を見たのは、後にも先にも、その時たった一度限りです。

「助かったとは誰も思わなかったから、来るのが遅れちゃって、ごめんな」
普段から優しい叔母たちがそう付け加えてくれました。

 あの事故から、今年でちょうど35年が経ちました。その後、私は一年もの間その救急病院に入院し、またさらに一年リハビリと通院を続けた末、どうにかこうにか、ぴょこぴょことではありますが、人並みに歩くことができるまで回復しました。

それでは、オートバイにはそれきり乗らなくなってしまったかというと、いえいえ、その事故から2年後には再び新しいバイクに跨がっていました。しかも、今度はそれまでの中型免許ではなく、大型自動二輪、いわゆる限定解除の免許を晴れて27歳の時に取得したのです。(そのことについては、また改めて)

 ようやく元通り歩けるようになった途端にオートバイにすり寄り、しかも今度はビッグバイクに乗ろうとしているなんて、あの頃の両親と同じ年齢になって今更ながらに自分のわがままを恥ずかしいと感じます。それでも、オートバイをこよなく愛し、休日にはバイクのボディを磨く子供の姿に、結局のところ両親は観念したのかもしれません。(そう信じたい。)
 
 おかげさまで、限定解除の免許を取得してからは、ヤマハのFZX750 V-MAX1300ccやらホンダのCB-1100ccなど、数限りなく乗りたいバイクを見つけては、今も颯爽と?風の中を走り抜けています。

 残念ながら、今でもあの事故と同じように、時々はひやっとする瞬間はあります。しかし、けして無理をせず、(ロングツーリングはさすがに出かけなくなってきましたが)近場にある安全な国道や、短い区間の高速道路を今ものんびりと愛車でクルージングしています。
 
 みなさんも、快適で安全なオートバイライフを楽しんで下さいね。